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創作:ネコノキモチ(2004.11) [雑記]

帰ろうかな。
 不意にそう思った。コピー機の前に佇んだまま、ぼんやりとそう思った。
 窓の外を眺めたとき、雪が降っていたからかもしれない。地下鉄に乗り、そこから二十分も歩いて部屋に帰ることや、部屋に帰っても、ストーブを点火してから暖まるまでを思ったら、ひとりで生活している理由も贅沢も何もないように思えた。
 だから、今私が思ったのは、部屋に帰ろうかなではなく、実家に帰ろうかなという、少しの決断を伴う願望。
 社会人になって、もうすぐ三年になる。もう十分頑張ったと自分自身を褒めてやるには、三年という期間は短い気もする。けれど、決断をするのは早ければ早いほど、やり直しが利く。
 そう。やり直しが利くんだと考えたら、決心できる気がしてきた。今の私には、捨てなければならないものがある。氷みたいに消えてなくなるものなら、無理に手放す必要はないのだけれど、暖めれば暖めるほど膨らんで、やがて手に負えなくなるだろう。
 もしかしたら、すでに手に負えなくなっているのかもしれない。
 コピー機は相変わらず、規則的な音を立てて動き続けている。そのリズムが、気持ちを沈静させて、ばらばらに崩れるのをどうにか引きとめているけれど、夜になって温くなったお風呂につかっていると、素直な気持ちが歪になっていく。
 あそこまで行ったら引き返そう、あそこにたどり着く前に引き返そうと、何度思ったかわからない。それでも私は、もう少し前に進んだなら、何かを得られる期待を捨てきれず、身軽な振りをして、重い荷物を引き摺っている。
 結果は同じなのに、無駄な努力を繰り返した。
 初めから関わらなければ良かったと何度後悔したかわからない。
 そんな想いにふさがれるとき、忙しない大勢の人々の話し声や足音から遮断され、この建物の中で唯一安らげる場所に、私は身を潜めているしかなかった。
 
「文香、またこんな雑用頼まれたの?」
 ノックもせずに入ってきたのは、リカだった。私は反射的に、両手を後ろに回していた。まるで見られたくないものを咄嗟に隠すように、ため息を背中に隠して笑顔を繕った。
「お昼いこうよ」
「もうちょっとで、終わるから」
「またアイツでしょう? いつも人の都合を考えないで仕事を言い渡すんだから。言ってやりなさいよ。あなたの奥さんじゃないって」
 リカがノックをせずに入ってくるのは、コピー室ばかりではない。人の心の中にも遠慮なく入り込んでくるリカに、私は隠した溜息を落としそうになる。あなたの奥さんじゃないなんて、言えるはずはない。言えるはずはないと考えて、考えてしまった自分に空しくなった。
「なんだったら、私が言ってあげる」
 今にも飛び出していきそうな勢いのリカを慌てて引き止める。
「違うの。課長の命令じゃないって」
「どうしてかばうのよ。アイツのこと」
「かばってなんかいないわ」
 強く否定したい気持ちに反して、私は呟くようにしか言葉を返せなかった。
「ほら、また出来損ないの福笑いみたいな顔してる」
「なによそれ」
「最近、うまくいっていないんでしょう?」
「そんなことないわよ」
「あと一ヶ月だよ」
「わかってる」
「どうするつもりなの?」
 どうするつもりも何も、どうにもできないとわかっていることがいちばん辛い。泣いても笑っても、終わりを迎える。それなら笑っていようと決心しても、気持ちはすぐに挫けてしまう。
 先ほどの会話が耳の奥に残っている。
 同じ課の人たちが子供たちの学校でいじめが問題になっていると、そんな話をしていた。あまり聞きたくない話だなと思っていたら、パソコンの画面に向かっていた航平にも話題が振られた。
 航平は単身赴任でこの札幌に来ていて、東京には奥さんと子供がいる。札幌支店の勤務は、最初から二年の約束だった。
「それで?」
「それで、ウチの子も今度小学生だからなあって」
 だから私は、午後からでもいいよと航平に頼まれていた資料を抱えて、コピー室へと逃げ込んだのだ。
「アイツの子供に嫉妬でもしたわけ?」
「そうじゃないわ。ただ、色々と考えたのよ。やっぱり、これがタイミングなのよ」
「ふうん」
 リカは納得していないだろう。納得していないのは、私も同じだった。自分の中で消化し切れないものを説明しようとすればするほど、嘘が増えていく。
「だったら、別れればいいじゃない」
「そのつもりよ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないわ」
 
「ごめんなさい。昼間のこと」
 ほかの社員はみんな退社し、フロアーには私と航平の二人きりだった。
 以前なら、一人で残業している航平に差し入れをするのが楽しみだった。そんなとき航平はとても喜んで、私を幸せな気分にさせてくれたものだ。
 でも、今は違う。
「オマエが気にすることじゃないだろ」
航平はそう言ってくれたけれど、顔は笑っていない。
 本当は大きな溜息を吐きながら、だからリカとは関わりたくないのだと、言いたい気持ちなのだろう。
 リカは悪い人ではない。いつも自分の気持ちに正直に生きているところは、見習いたいくらいだ。無条件に見方にならない性格も大好きだ。ただ、真っ直ぐすぎるところが時々、他人の気持ちを荒立たせてしまう。
 さっきも私たちがコピー室から戻る途中、喫煙室で航平が煙草を吸っていたのを見て、リカは怒り出した。私にコピーを言い渡しておいて、休憩していたことを咎めたのだ。
私が勝手にしたことだった。それに航平は昨日も夜中まで残業し、今朝だって早くに出勤しているのを私は知っていた。航平に煙草を吸わせるためなら、私はコピーでも何でも喜んで引き受ける。
 航平は悪くない。逆に叱られても、何もいえない。
 でも最近の航平が波風を立てることを避けている。彼は確実に、終わりに向かって準備を始めている。そうして一ヵ月後に、ゲームが終わる日をただ静かに待っているのだろう。
私は恋だと思っていた。たとえ彼に奥さんがいても、家庭があっても、それとは別の場所で、私たちは恋をしているのだと思っていた。
 でも結局は、ゴールのないゲームなのだ。ゴールがないのに、負けてしまうゲームなのだ。
「航ちゃん」
「ん?」
 もう終わりだねとか、もういいよとか、そんなことを言おうと思っていたのに、口から出た言葉はまったく違う種類のものだった。
「キスしてくれる?」
 自分で言っておきながら、驚いたのは私の方で、航平はパソコンの画面から目を離さない。
「ここは会社だぞ」
 怒っているのでも呆れているのでもない。かといって喜んでもいない口調で、航平は言った。
「誰もいないよ」
「そういう問題じゃないだろ」
「じゃあ帰っちゃおうかな」
「お疲れさま」
 相変わらず航平は、こちらを向いてもくれない。
押したり引いたりの駆け引きが通用しない。これまでも寂しさや切なさを上手に処理してきた。それができなくなったら、ゲームは終わる。
 私は後ろから、航平の首に手を回して、顔を近づける。頬にキスする振りをして、耳元でそっと囁いた。
「バイバイ」
 
 離れようとしたとき、強い力で腕を掴まれた。立ち上がった航平に引き寄せられる。航平は私を抱き寄せると、唇を合わせた。仕向けておきながら、まったく期待していなかった私は、航平の胸に両腕を突っ張って抵抗した。
「どうした?」
 感情のない口調で、航平が言う。
「だって」
「キスしろって言ったのは、オマエだぞ」
 今度は壁に押し付けて、先ほどよりも強い力で抱きしめる。
 私はその身体を突き飛ばした。
「あのさ」
 航平に見つめられて、私は俯いてしまった。
「どうして欲しいの?」
「どうして、って」
 航平は溜息を吐いて、机にもたれる。
「自分から近づいてきたくせに、俺が近づくと逃げるだろ」
 それは仕方ないじゃないと言いたい気持ちを私は堪えた。私だって好きで逃げているわけではない。逃げ出す準備と、逃げる場所が必要なのだ。
 暫くの沈黙のあと、航平はゆっくりと話し始めた。
「もし、猫が捨てられていたらどうする?」
「ネコ?」
「そう。子猫が捨てられていたら、オマエは拾う?」
「そんなの、そのときになってみないとわからないわ」
「どうして?」
「だって色々な事情ってものがあるでしょう。私は一人暮らしだし、それに猫よりも犬のほうが好きだし。その猫との相性もあるし」
 航平の言いたいことが全然わからない。
「何が言いたいの?」
「俺もさ、どうしていいのかわからなかったんだ。家の近くの公園に猫が捨てられていたんだけど、俺が近づくと猫は逃げるんだ。物陰から様子を窺って、俺が帰ろうとすると恐る恐る近づいてくる」
 航平は机の上にあったボールペンをトントンと叩きながら、そのリズムに合わせるように話した。
「似てない?」と航平が言った。
「誰と?」
「オマエと」
「ぜんぜん似てない」
 私が口を尖らせると、航平は笑った。
「それで?」
「それでさ、二日間考えて、その猫を飼おうと決めたんだ」
「ふうん」
「そしたら、三日目に猫はいなくなってた」
 それが今のこの状況と、どう関係があるのだろう。
 私は猫に自分を当てはめて、余計にわからなくなっていた。
「今になって、あの猫はどんな気持ちだったのかなって時々考えるんだ。俺に拾われたかったのかなって。そして、あのあとどうなったのかなって。まあ、優しい飼い主に拾われていったなら、俺に拾われるよりは幸せだと思うけど、行く場所がなくて迷子になっているかもしれないし」
 そこまで話すと、不意に航平は立ち上がった。
 優しい顔になった航平は、私を僅かに安心させる。
「自分で話しておいて、何が言いたいのかわからなくなった」
 そう言って、また笑った。

「何よそれ、全然わかんない」
コピー機は相変わらず、規則的な音を立てて動き続けている。
私の話を聞いていたリカは、口を尖らせて首を傾げてばかりいた。
「航平のやつ、去年離婚してたんだって」
「うっそ」
 リカは大袈裟なくらい驚いてみせる。
 私だって驚いた。昨日、航平にその話を打ち明けられたときは、たくさんの種類の気持ちを撒き散らして、拾い集めるのが大変だった。
「じゃあずっと、騙してたわけ?」
「騙してたっていうか、迷ってたっていうか、観察していたっていうか」
「どうして平気でいられるのよ。文香は騙された上に、猫と一緒にされたわけでしょう?」
確かに聞かされたときは、悔しいような、情けないような気持ちに塞がれた。でも自分でも不思議なくらい、優しい気持ちになれたのだ。
航平の不確かな気持ちは、私も同じだ。
「じゃあ、一緒に東京に行くんだ」
「それはまだ、わからないわ」
「どうして?」
「猫を飼うってことは一緒に暮らすってことでしょう。それって、その猫の人生を全部引き受けるってことでしょう。航平とのことを、そんなふうに考えたことがなかったの」
 ずっと航平が結婚していることが唯一の障害だと思っていた。でも、それが取り除かれ、普通の恋人として航平を意識して初めて、たくさんのことが見えてくる。
「アイツのこと嫌いなの?」
「嫌いじゃないわ。もちろん好きよ」
「じゃあ、迷うことないじゃない」
「そう簡単にはいかないのよ」
「どうして?」
 航平とは年齢も離れているし、結婚となると、もっと複雑で厄介な事情も絡んでくる。
「文香はいつも、難しいこと考えてる」
「そうかな」
「そうよ。他人の人生なんて全部を引き受けようとするから、重たくなるのよ。覚悟とか決心とか、そういうことを大袈裟に言う人に限って、たいした度胸もないものよ」
 リカの言葉は、私の中にすうっと染み込んで、小さくて透明な水たまりを作った。
そんなふうに生きてきたリカが羨ましかった。
「難しく考えているうちに、また猫はいなくなるのよって言ってやりなさい」
 リカはコピー機から出てきた用紙を机の上で揃えながらそう言った。
「だめだったら、また私が拾ってあげるからさ」
 そして握った片手の手首を頬の辺りで曲げ、招き猫みたいな格好で「ニャア」と言った。
 それを見た私は、心から笑えた。

 ためしにUPしてみました。
 ちょと長かったかな、、。
 しょっぱなから「ネコ」だし(笑)

 これは学校の「2004年作品集」に掲載した作品です。
 評価はぎりぎりのところで落ちるかな?と思っていたのですが、
 思っていたよりは苛められずにホッとした作品です。

 でも本当は、こんな結末に料理するはずじゃなかったんですよ。
 こしょうを入れようとして、思わず砂糖を入れてしまったら、こんな味に仕上がりました。


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kokomo-plus7

すうっと読める作品でした。
面白かったです。
私も小説書いているのですが、なかなか肩に力が入りすぎているので、、、
すごく参考になりました。
by kokomo-plus7 (2006-05-11 16:40) 

kanamixx

★KOKOMOさんへ★
はじめまして!コメントありがとうございます!
それから、小説もお褒めいただき、ありがとうございます。
まだまだ人様にお見せ(お読ませ?)できるものじゃありませんが、
また遊びにいらしてくださいね!
そうそう、ワン繋がりでもあるんですよね!
そちらにも、今度ゆっくりお邪魔します。
by kanamixx (2006-05-12 02:23) 

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